はじめに

 検察が大好きな私でしたが,33年間の勤務を終えて,最後に霞ヶ関の検察庁舎をでるとき,なぜか感慨のようなものはありませんでした。(弁護士 粂原研二の経歴について著作権について
 今の検察は,官僚色の強い組織運営が行われ,熱気や活気が消えて閉塞感が漂っていると,検察の現場やマスコミの人たちからも聞いていました。

 それでも私は,検察が好きなものですから,後輩たち,特に若い検察官や検察事務官の人たちが,冤罪を生むような不適切な捜査・処理をしたり,不当な強制権力の行使をして,社会から批判を受けることのないようにと願い,また,「真相解明」のために創意工夫し,熱意をもって捜査することの楽しさ・やりがいを是非実感してほしいと思い,さらに,33年間検察の現場に置いてもらい,いろいろな経験を積ませてもらった者の責務でもあろうと考え,後輩にエールを送るつもりで,捜査・公判の基本や捜査官の心構え等についてのメッセージのようなものを書いてみようと思いました。辞めたやつに偉そうなことを言われたくないと思う人がいるかもしれませんが,少し我慢して読んでみてください。頭や心の隅にひっかかるものが少しはあるはずです。抽象的な話をしていても分かりにくいと思いますので,取り上げる項目の後に〔事例〕として,著名なあるいは名も無い無罪事件,日常的に生起する事件等を取り上げて,捜査・公判遂行上の留意点等を記載していくことにしました。取り上げる無罪事件等は一部を除いて抽象化,匿名化していますが,このことが基本的な捜査・公判遂行上の留意点等を伝えるという目的の障害になることはないと思います。
 そして,最後に[捜査の実践]として,私自身が調査・捜査に携わった事件を介し,いわゆる独自捜査の実務の一端を紹介することにしました。若い検察官に興味を持ってもらえたらいいなと思っています。

 また,一般市民のみなさんにも捜査や刑事裁判の実態を知ってもらい,ある日突然みなさん自身や周辺の人たちが犯罪の嫌疑をかけられたり,逮捕・勾留されたときに,どのようなことが現実に起こるのか知っていただき,不当な権力の行使から身を守るにはどうすればよいのかを考えてもらうことも意義のあることだろうと思いました。

 日本の刑事裁判の有罪率は,99.9パーセントであるとよくいわれます。検察官が,有罪になると判断した事件だけを起訴し,裁判所も被告人側の主張より検察官の主張を信用しがちですから有罪率99%超えも不思議なことではありませんが,やってもいない事実で人を処罰していいわけがなく,そのために弁護人もいるわけなのですが,有罪率が示すように無罪を勝ち取ることは極めて困難であるというのが実情です。そのことは,脱税,贈収賄,大型経済事件等の複雑困難な事案でも,窃盗や痴漢等の単純な事案でも同じです。
 しかし,刑事事件の捜査・公判の実態は,起訴された人のうち,真実犯罪を行った人の割合が99.9パーセントである,つまり1000人起訴されれば,999人は実際に犯罪を行ったのだというものではありません。本当は犯罪をやっていないけれども,留置場から早く出たいために事実を認める供述をしてしまい,罰金を納めたり,執行猶予付の有罪判決を受け入れた人が999人の中には含まれているはずですし,無期懲役や死刑を言い渡された人の中にも,無実の訴えが裁判所に理解してもらえず,絶望のまま刑に服さざるを得ない人が999人の中に含まれているかもしれないのです。

 刑事事件のほとんどは警察官が捜査し,検察官が起訴・不起訴を決定するという流れで処理されます。一般の人は犯罪などとは無縁に生活し,新聞,テレビ,インターネット等で報道される各種犯罪についても他人事として傍観しているかもしれません。
 そのため,一般市民のみなさんは,刑事事件の捜査・裁判について勉強することはなく,あるいは勉強する必要がなく,刑事事件の手続が実際にどのように進められいくのか,警察官や検察官が作成する供述調書が捜査や裁判の中でどのような意味を持つのか,供述調書は実際にはどのように作成されるのかといったことについては正確な知識を持っていないと思われます。警察官や検察官が,嘘をいったり,間違ったことをするはずがないと考えている人も多いだろうと思います。しかし,必ずしもそうではないと思われます。

 ここでは実際にあった事件を一つだけ紹介し,警察による捜査の実態や刑事手続の流れの概要をまず理解してもらいたいと思います。

 Aさんは,ある犯罪で告訴されましたが,犯罪と評価されるような行為は行っていないと思っていました。しかし,Aさんは,警察での取調べで,「このまま否認していると逮捕するぞ。認めれば穏便に済むよう告訴人に取りはからってやる。認めた方が示談も成立しやすい。」などといわれ,警察官がいうことを信用し,また,警察官調書の持つ意味も重要性も分からず,実態とかけ離れた極めて悪質な内容の調書を作成され,それに署名してしまいました。Aさんは,本当はお金など払う必要はないけれど,数万円か数十万円くらいの示談金で問題が解決するなら,取調べを何度も受けたり,会社に連絡されたり,逮捕されたりするよりはましだと考えて,自分の記憶とも事実とも異なる調書に署名してしまったわけです。

 Aさんは,示談をしようと努力しましたが,うまくいかず,その後,あの不当な内容の警察官調書を証拠として裁判官から発布された逮捕状で,警察によって逮捕されてしまいました。
 Aさんは,身柄付で検察庁に送致(送付)され,担当の検察官に対し,警察官調書に書かれていることは事実とは全く異なると訴えましたが,検察官は,Aさんの話しを信用せず,Aさんは事実を否認していて,証拠隠滅をしたり,逃亡する恐れがあるとして,Aさんの勾留を請求しました。Aさんは,そもそも犯罪などしておらず,家族と一緒に暮らし,優良な会社に勤務しており,また,告訴人と接触する意思もなければ,接触して何かを頼めるような状況にもなく,逃亡したり証拠隠滅したりする恐れは全くなかったのですが,裁判官によって勾留されてしまいました。弁護人は,勾留が不当であることを訴えましたが,裁判官は,その訴えに耳を貸さず,10日間の勾留を決定し,さらに10日間の勾留の延長を決定しました。逮捕→勾留→勾留延長の流れは,まさに荷物を運ぶベルトコンベアのような制度になってしまっており,裁判官によるチェックはほとんど機能していないといわざるを得ないのが実情です。 

 弁護人は,Aさんの本当の供述の裏付け調査をしたり,検察官に事件の実態を理解してもらうための意見書を提出するなどし,そして何よりもAさんの話をよく聞いて,Aさんが嘘をいっているかどうか慎重に判断してほしいと要望しました。
 その結果,Aさんについては,検察官に適正な証拠評価,事実認定をしてもらうことができ,何とか不起訴処分(嫌疑不十分)となりましたが,間違って起訴されていれば,否認していて証拠隠滅の恐れがあるとして,保釈が許可されず,起訴後の勾留が何か月も続くことになったろうと思います。Aさんが,起訴事実を認めるか,検察官による立証が終了するまでは,なかなか保釈が認められないのが実情です。そして,この事件についても起訴されたら無罪を勝ち取るには多大な時間と労力を要しただろうと思われます。

 もちろん多くの警察官は,まじめに職務を行っていると思いますし,警察官がでたらめな捜査ばかりしているなどというつもりは全くありませんが,この事件の諸悪の根源が,警察官の取調べと初めの警察官調書であることは分かっていただけると思います。一度虚偽の内容の供述調書を取られてしまうとそれを覆すのは極めて困難です。多くの冤罪事件がその証拠です。
 これが刑事事件の実態を示す,実際にあった話です。Aさんもこんな経験をすることになるとは夢にも思っていませんでした。一般市民のみなさんもそれは同じだろうと思います。

 このメッセージが,刑事事件に携わる人たち,特に若手検察官や若手弁護士のお役に立つことがあれば幸いですし,刑事事件や裁判に関心や関わりのある人たちにとって,その実態を理解する一助になれば幸甚です。