[事例] 集団申告漏れ事件

 少し専門的になりますが,東京国税局が告発し,東京地検特捜部が起訴した脱税事件が全面無罪になるという珍しいことが起こりましたので,紹介し,検討してみたいと思います。

 東京高等裁判所は,平成26年1月31日,ある男性の所得税法違反事件について,無罪を言い渡した一審判決を支持し,検察官の控訴を棄却する判決を言い渡しました。
 検察官は,控訴審において,一審裁判所が,過少申告の認識がなかったとする被告人供述を排斥することはできず,全証拠を検討しても,被告人に所得税ほ脱の故意があったと認めるには合理的な疑いを容れる余地がある,と判断したのは,論理則・経験則に違背すると主張しましたが,控訴審裁判所は,「原判決の認定に論理則・経験則等に照らして不合理な点はなく,事実誤認があるとはいえない。」と判断したのでした。

 本件は,極簡単にいうと,外資系証券会社に勤務していた被告人が,平成18年分で約5000万円,同19年分で約2億8000万円の株式報酬等を申告せず,所得税合計約1億3000万円を脱税した(虚偽過少申告ほ脱犯)として起訴された脱税事件です。
 事実関係にはほとんど争いはなく,争点は,脱税の故意があったか否かであり,給与収入に関しては,(1)被告人に株式報酬が源泉徴収されていないことの認識があったか,(2)本件各申告時において,被告人が給与収入総額と申告額を具体的に認識していたか(差額の認識があったか)の2点でした。被告人は,捜査・公判を通じ,株式報酬は源泉徴収されているものと思っていたし,過少申告の認識はなかったとして脱税の故意を否定していました。

 この事件の特色は,事実関係に争いがなく,脱税の故意の有無だけが問題になった点と,ほ脱税額が1億円を超える,いわゆる否認事件でありながら,被告人が逮捕・勾留されることなく,在宅事件として捜査・公判が行われた点,さらに被告人と同じように株式報酬の申告をしなかった社員が大勢いたのに被告人だけが告発・起訴された点だと思います。
 大阪地検特捜部の証拠改ざん事件やその後の検証作業が行われていた時期と重なったとはいえ,国税局による告発から起訴までに2年を要しており,これも特異なことではないかと思う人がいるかもしれませんが,確かに最近では珍しいものの,私が現場にいたころには,在宅の脱税事件をたくさん引き継ぎ,時効直前の事件もあって,東京拘置所で身柄事件を担当しながら,暇をみて時効間近の否認の在宅事件の捜査もしていたという記憶があり,2年の経過は事情によってはそう特殊なことではないように思います。

 私は本当のところを知っているわけではありませんが,本件捜査が在宅で行われた理由は,事件の構図そのものにあると思います。給与収入を申告せずに税金をごまかそうとしても,国税当局が,給与を支払う会社を調べれば被告人がいくらの株式報酬等を得たのか,たちどころに全てが分かってしまうのに,仮名の預金口座を利用する等の明確な所得秘匿工作も行わず,給与収入を除外する方法で脱税しようなどと考える人がいるだろうかという,事件の構図自体に内在する疑問があって,強制捜査に踏み切れなかったのではないかと思います。
 また,被告人と同じように株式報酬を申告しなかった社員が100人くらいいたのに告発されたのは被告人1人であって,いくら否認しているとはいえ,強制捜査を行うのはあまりに不公平であり,酷であると考えたかもしれません。

 そうはいっても,被告人に脱税の故意ありと認定する方向に働く多くの間接事実があって,その事実を経験則・論理則に従って正しく判断すれば,被告人に脱税の故意があったことは優に認められる,と検察官は考え,起訴したのだと思います。

 検察官が,経験則・論理則によれば脱税の故意が認定できるとして挙げた間接事実をいくつか検討してみたいと思いますが,特筆すべきは,一審裁判所が,検察官の主張を排斥するに当たり,「被告人の供述」を理由として挙げていることです。被告人は,捜査・公判を通じて脱税の故意を否定していたことは先に述べましたが,被告人は,検察官による取調べにおいても,一つ一つの事実について明確に反論し,自己の認識・考えを供述して,供述調書に記載してもらったものと思われます。一見不自然そうに思われる供述であっても,それが真実を語るものであれば,それを裏付ける証拠も付いてきて,強力な説得力を持つことが分かります。
 検察官が最も重点を置いたのは,被告人は平成18年分で約5000万円,同19年分で約2億8000万円の株式報酬を得ていたという厳然たる事実であり,これに数々の間接事実を併せ考慮すれば,確定申告に当たり,申告額と実際の収入金額との間に相当多額の差異があることを当然認識していたはずであるという点でした。
 控訴審裁判所も「検察官が指摘する各事実は,申告額を上回る報酬受領の事実を認識していたことを相当程度推認させるものであることは確かである。とりわけ,総所得金額と申告額の差は,一般的には申告額を上回る報酬を受領していたことを認識していたものと推認されるのは間違いない。」と判示しています。
 しかし,控訴審裁判所は,被告人が所得秘匿工作を全く行っておらず,税務当局が調査に入れば多額の脱税の事実が直ちに判明する状況にあったこと,被告人は税理士のミスで申告していなかった平成14年から同17年分の期限後申告を同19年2月に行っているが,同17年には初めて得た株式報酬約2400万円があったのにこの分は期限後申告でも申告漏れになっているところ,過年度申告を税理士に依頼しながら敢えて株式報酬部分だけを申告から除いて所得税のほ脱を意図していたとは考えにくいこと等のほ脱の故意を推認するに当たり消極方向に働く事情がある,としました。同17年分は,告発も起訴もされていません。

 また,検察官は,会社に源泉徴収義務がないことを記した社内のメモランダム・メールの受領状況等によれば,被告人が株式報酬は源泉徴収されていないことを認識していたことが認定できると主張しましたが,控訴審裁判所は,株式報酬が源泉徴収の対象でないとの認識が一般化しているとはいえず,被告人がメール等の内容を明確に認識したかも明らかでない上,被告人を含め多人数の株式報酬の申告漏れを出した本件会社はその後源泉徴収を行うようになっていること,会社のコンプライアンス部長も株式報酬については源泉徴収されていると思い込んでおり,被告人を含む100人程度が不申告であったこと等の事実も認められ,検察官の主張は採用できない,としました。

 そして,控訴審裁判所は,「原判決は,ほ脱の故意を認定すべき積極方向の事実が存するとしつつ,その推認力は高いものではないことを示す事情があるとし,また,ほ脱の故意を認定するには消極方向の事実も少なからずあって,検察官の指摘する各事実を総合しても,株式報酬も源泉徴収されていたと思い込んでいた旨の被告人の弁解を排斥することはできず,さらに申告時にその年に受領した給与収入額と自己の申告額との差額を具体的に認識していたとも断定できないとして,結局,被告人にはほ脱の故意があったと認めるには合理的な疑いが残るとしたが,原判決の認定に論理則,経験則等に照らして不合理な点はなく,事実誤認があるとはいえない。」として検察官の控訴を棄却し,同判決は確定しました。 

 被告人は,受け取った株式報酬を自ら売却したり,売却代金を被告人名義の海外の口座に入金したりしていましたから,それだけ多額の報酬を得ていて,確定申告時にそれを認識していないはずはないだろう,というのも確かに常識的な判断であるように思います。 他方,被告人は,仕事柄日常的に100億円を超える高額の取引に携わり,自らも高額の報酬を得ていて通常人とは異なる環境に置かれていた上,既に述べたとおり,国税当局が,給与を支払う会社を調査すれば被告人がいくらの株式報酬等を得たのか,たちどころに全てが分かってしまうのに,仮名の預金口座を利用する等の明確な所得秘匿工作も行わず,給与収入(株式報酬)を除外する方法で,故意に脱税しようなどと考える人がいるだろうか,というのも健全な常識的判断だろうと思います。
 被告人が脱税の故意を持っていたかどうかを判断するに当たり,故意がなかったことを窺わせる事情が少なからずあったわけですから,一審,控訴審の判断は経験則・論理則に則った適切な判断であるといえると思います。