[事例] 連続殺人事件

 被告人が,被害女性A・B・Cの3名を殺害したとして起訴され,死刑を求刑された事件について,一審が無罪を言い渡し,検察官の控訴が棄却されて,上告できずに確定した事件がありました。
 この事件は,特異な捜査経過を辿っています。
 A事件の犯行は平成元年1月,B事件の犯行は昭和62年7月,C事件の犯行は昭和63年12月に行われたものとされ,平成元年1月のA事件の犯行の数日後に雑木林内からA・B・Cの遺体が次々と発見され捜査が開始されました。遺体発見の当日から数日間Aの交際相手と特徴が似ているとして,被告人が任意で取調べられましたが,被告人はAとの交際を否定し,捜査は進展しませんでした。
 その後,被告人は,平成元年10月,全く別の事件で逮捕・勾留され起訴されました。警察は,別件の起訴後の勾留中にA・B・Cの殺害容疑で被告人を長期間にわたり徹底的に取調べ,A・B・C殺害を自白したとして,被告人に上申書を作成させ,供述調書等を作成しました。その数は約100通に及びました。検察官による取調べも行われ,供述調書が作成されました。しかし,この時点では,殺人罪による逮捕も起訴も行われませんでした。

 被告人が,Aに対する殺人の容疑で逮捕されたのは,B事件の時効完成が迫った平成14年6月でした。そして,A事件で起訴され,B事件でも時効直前に逮捕起訴され,さらにC事件で逮捕起訴されました。被告人は完全否認していました。
 捜査側が,平成14年6月の時点で急きょ被告人に対し,強制捜査・起訴に踏み切った背景に,何らかの捜査の進展があったかどうかは記録上不明だとされています(控訴審判決)。
 本件一審の公判で検察官が証拠請求した証拠は,平成元年に収集された被告人の上申書,供述調書,実況見分調書等でした。被告人の上申書等は,別件の起訴後の勾留を利用し,連日長時間にわたる強制的な取調べによって得られた違法収集証拠であって証拠能力がなく,任意性にも疑いがあるとして,ほとんど証拠採用されませんでした。被告人は,平成元年10月から11月まで取調べを受け,自白したとされる日までの17日間は,平均して一日約12時間取調べられ,特に自白したとされる日の前日は,翌日午前2時過ぎまで取調べられ,当日は午前9時過ぎから取調べが開始されたと認定されています。
 本件においては,被告人と犯行を結びつける指紋等の客観的な直接証拠は皆無で,直接証拠は「自白」だけでしたが,この証拠請求が却下されたのでした。
 検察官は,(1)被害者3名は,同一現場に遺棄され,殺害方法も類似しており,同一人物によって殺害されて遺棄されたと認められるところ,被告人は,そのいずれについても関わりを有していたと認められること,(2)被告人のA事件に関するアリバイ供述は虚偽であり,殊更虚偽の事実を述べているのは被告人の犯人性を推認させる情況証拠であること,(3)Aの交際相手は被告人一人であり,犯行直前にAを呼び出したのも被告人であると認められること,(4)ある駐車場で目撃された車両は被告人の車両(バイザー付軽トラック)である蓋然性が極めて高く,同じころAの使用車両も同じ駐車場で目撃されていること,(5)Aが殺害時に失禁していることは明らかであり,被告人車両の助手席シートに人尿の付着が認められたこと,(6)Aの遺体の傷が,特徴のある突起のある被告人車両内で生じたとして合理的に説明できること,(7)平成元年1月の取調ベ時に認められた被告人の手の傷は,A殺害時にできた可能性があること,(8)死体遺棄現場と被告人に関連性があり,被告人に土地鑑があること,(9)Aの所持品は,死体遺棄現場から被告人宅に至る道筋で発見されていること等を被告人が本件各犯行の犯人であることを示す情況証拠であると主張しましたが,一審・控訴審の裁判所は,
(1)については,「Bについては死因が不明で事件性自体に問題がある。仮にBがA・Cと同じように絞殺又は扼殺されたものであるとしても,殺害方法の類似性は本件各事件が同一犯による犯行である可能性があるという程度のものであるに過ぎず,3名の遺体が同一現場に遺棄されていたからといって,各被害者が同一人物によって殺害されたと認定できるものではない。A殺害の犯人が被告人であると認めるに足りる証拠はなく,B・Cと被告人が関わりを有していたと認めるに足りる的確な客観的証拠もない。」とし,
(2)については,「被告人のアリバイ供述が明らかに虚偽であると断定することはできないというほかない。アリバイ主張の変遷や虚偽のアリバイ主張という事実は,被告人の犯人性を推認させる一事情とみることはできても,そのこと自体から直ちに被告人の犯人性を推認させたり,それを裏付けるほどのものとは言い難い。」とし,
(3)については,「Aの交際相手が被告人一人であるとは断定できず,犯行直前にAを呼び出したのが被告人であるとも認定できない。」とし,
(4)については,「目撃証言は信用できるが,バイザー付軽トラックの消去捜査の過程では,通信販売によって同バイザーを入手する可能性もあるのに,その場合を考慮されていないなど捜査の範囲は限定されたものといわざるを得ない。目撃者によれば,軽トラックには人が乗っていなかったというのであり,疑問が残る。駐車場で目撃された車両が被告人車両であったとまでは認めることができない。」とされ,
(5)については,「被告人車両助手席に付着していた人尿の血液型が不詳であることは,それが判明して被害者Aの血液型と一致する場合に比し,人尿とAの結び付きについての証明力の程度は劣る上,被告人車両が他人に貸与されていたことから第三者により人尿が付着された可能性があることは,Aの失禁と,被告人車両の助手席に人尿の付着が認められることが符合するという事実の証明力に一定の制約が生じることは明らかである。」とし,
(6)については,「Aの殺害現場は不明であり,Aの遺体に認められた傷のうちに被告人車両内で生じたと考えても矛盾しないとの鑑定結果があるとしても,それは単に可能性の一つを指摘するにとどまり,他の同型式の自動車も多数存在し,その他の自動車については検討もされておらず,被告人車両からA殺害の客観的な痕跡が何ら発見されていない点を考えると,この程度の事実は被告人の犯人性を積極的に推認するものとは到底いえない。」とし,
(7)については,被告人の手の傷がA殺害時に成傷した可能性を示す証拠は一切ないから,被告人の手に傷があったという事実が認められるからといって,被告人がA事件の犯人であるとの認定に結びつくものではない。」とし,
(8)については,「死体遺棄現場の付近に居住する被告人に土地鑑があることはむしろ当然である。死体遺棄現場が限られた者しか知り得ない,死体が発見されにくい特殊な場所というわけでもなく,通行人らによって投棄された可能性が十分ある雑多な物が多数発見されている。」とし,
(9)については,「所持品の発見日時はまちまちであり,Aの所持品がA殺害の当日に順次投棄されたとしても,その投棄順序については必ずしも明らかでない。そもそも被告人が犯人とすれば,死体遺棄現場から自宅に至る道筋に順次Aの所持品を遺棄していくのか疑問である上,そのいずれからも指紋等被告人との結び付きを明らかにするものは全くない。」としています。
 その上で,控訴審裁判所は,「そもそも記録上うかがえる検察官又は捜査官側が考えている被告人に対する本件各犯行に至る経緯,犯行動機は,非常に衝動的,偶発的なものと推察されるところ,本件各被害者の遺体が発見され多数の捜査官を動員して捜査が行われたのに,本件各事件のいずれについても,被告人と被害者とが行動を共にしているところを見た目撃者は現れておらず,指紋などの被告人と各事件の関わりを示す直接的かつ決定的な客観証拠は皆無であって,この程度の証拠で,重大な本件各事件について被告人を有罪とすることは,刑事裁判の鉄則に照らしてできないというべきである。」と判示し,一審の無罪判決に対する検察官の控訴を棄却しました。

 A事件発生直後の平成元年当時の捜査に関与した検察官から事情を聞けないので,本当のところはもちろん分かりませんが,主任検察官やその上司の決裁官は,警察が,自白したとして被告人に作成させた上申書や警察官が作成した供述調書の任意性・信用性に疑問を持ち,また,被告人が犯人らしいと思われる情況証拠を検討しても,これだけではB事件・C事件はもとより,A事件についてさえ被告人が犯人であると認定することは困難であると判断し,警察の強い要請・圧力を受けながらも,被告人を逮捕することを了承しなかったのであろうと推測されます。本件の上申書や供述調書の内容について,裁判所は,「信用性を高めるほどの秘密の暴露が見当たらず,臨場感に乏しい平板な内容のものばかりで,取調官から誘導がなされた可能性もあって,上申書等の信用性には疑問があり,少なくとも任意性を裏付けるような高度の信用性はない。」「上申書の作成に,取調官から相当具体的な指示ないし働きかけがあったことが推認できる。」「本件上申書等は,本件殺人を犯した犯人でなければ供述し得ないような内容が含まれず,迫真性にも乏しいもので,その信用性にも疑問があり,任意性を裏付けるほどの信用性がないことも明らかである。」などと指摘しています。

 本来,任意性・信用性の確保に十分すぎるほどの注意を払った上でなければ行うべきでない起訴後の任意の別件取調べを,警察署の留置場に勾留したまま,取調べを受ける義務がないことを明確に告げることなく,一日平均12時間・17日間も続けたというのですから,こんな取調べで得られた上申書や供述調書が証拠として使えないことは誰がみても明らかだと思います。取調べの時間等は留置人の出し入れ簿を見れば簡単にわかります。これも推測にすぎませんが,警察は,遺体発見現場の近くに住んでいた素行不良者の被告人がAと付き合っているようだという情報を得て,数日間取調べたものの自供が得られず,別件で逮捕・起訴されたのを契機に「必ず自白させる」との組織的な方針を立て,前記のような違法・不当な取調べを行ったのだと思います。被告人が自ら任意に書いたように仮装するため,大量の上申書を作成させていることだけみても本件取調べの異常性が分かります。

 それから十数年後に被告人は逮捕・勾留・起訴されました。控訴審判決によれば,B事件の時効完成が迫ったことを除けば,捜査側がこの時点で強制捜査・起訴に踏み切った背景に「何らかの捜査の進展があったかどうかは記録上不明」だとされています。この間,検察側の体制は,主任検事も決裁官も異動で何人も替わったはずです。この項の初めに述べたように,検察側の体制が変わると,警察が未検挙重要事件の説明にきて,こういう証拠があって犯人性についても間違いのない事件だから強制捜査に着手させてほしいと要望してくることがあります。そういう場合には,証拠関係をよく把握して検討するのはもちろんですが,検察官が替わる前に行われれた前回の説明後どういう捜査をして,どういう証拠が収集されたのかを必ず確認すべきです。前回の相談時には強制捜査は不可との結論が出されているわけですから,それと異なる結論を出そうとするなら,前回の判断が明らかに間違っていたと判断できる資料・証拠か,前回の判断は正しかったがそれ以降の証拠関係の変化により前回の結論が正当性を失ったという明らかな資料・証拠が必要だと思います。もちろん重大事件の時効完成が切迫しているなどということは,前回の判断を覆す理由にはなりません。  本件の逮捕・勾留・起訴を決定した主任検事,決裁官は,どのような証拠を検討をし,それまでの結論とは異なる,積極の判断をしたのでしょうか。