[事例] 住居侵入事件

 住居侵入事件の被害者であり目撃者でもある男性は,「朝出勤するため玄関のたたきに下りたところ,外から玄関ドアのノブを掴んでガチャガチャと回したり引っ張ったりする音がしたので,横の明かり取りの窓から外を見ると,男が庭を走り,門扉から道路に出て行くのが見えたので,泥棒に入ろうとしたのではないかと思い,すぐに男を追いかけて道路上で追いつき,「何をしてるんだ」と追及したが,男は「何もしてない」といって歩いて去って行った。その後男性は近くに駐車してあった車から荷物を取るなどして一旦自宅に戻り,奥さんに上記のような出来事を話して警察に通報しておくよう指示して出勤した。」と供述しました。男性の奥さんも自宅近くをうろうろしている不審な男を何度か見ていたので,その男のことだと思い,警察に連絡しました。
 被害者の男性は,仕事が終わった後警察に行き,上記のような事情を説明し,その男の顔写真を含む何枚かの写真を見せられて,被告人を住居侵入の犯人であると特定しました。
 しばらく後,また男が近所を歩いているのを被害者が発見し,警察に通報したことにより,男は逮捕され,住居侵入罪で起訴されました。被告人は,捜査公判を通じて「道路を歩いているときに男性から声をかけられたことはあったが,庭の中に入ったりドアノブを掴んだことはない。」と供述して否認していました。

 検察官は,被害者であり目撃者である男性が嘘をつく理由は全くなく,その証言は信用できると主張しましたが,裁判所は,男性の証言は信用できないとして無罪を言い渡しました。
 男性の奥さんから連絡を受け,被害者宅に赴いたのは交番勤務の警察官で,ドアノブからの指紋採取や庭の足跡痕の採取は行われていませんでした。たとえばドアノブから被告人の指紋が採取されていれば,有罪の有力な証拠になりますが,そういう基本的な捜査をしていなかったのに被害者の証言だけ信用して有罪にしろというのは虫がよすぎるというものです。また,男性は,犯人の写真として髪が伸びた男の写真を選びましたが,被告人は,この住居侵入事件の直前に床屋に行き髪を短く切っていることが判明しました。男が走って逃げたか歩いて逃げたかについて,男性の供述に変遷がありました。

 そもそも住居侵入の犯人を捕まえたのに自分では警察に通報せず,奥さんに任せて出勤したのは不自然ではないかということや,朝,家人がいるであろう時間帯に泥棒目的その他の目的で家に侵入しようとする者がいるだろうかという疑問もありました。
 このような事情が判明して裁判所は男性の証言の信用性を否定したのでした。

 ところで,被告人は,この事件の少し前にも,ある家の敷地に入っているところを警察に通報されて現行犯逮捕されたことがあり,このときは,敷地に囲い等がないので住居侵入が成立すると認定するには疑問があるとして不起訴処分になった前歴がありました。この近所の住民たちは,被告人をしばしば目撃し気味悪がっていたという事情があったのでした。
 そして,この事件を担当した検察官によれば,被害者の男性を取調べたとき,男性が「警察がこれでいけると言っていた」と供述したことがあり,気になっていたということでした。

 本件被害者の男性が嘘の供述をしたのかどうか真相は分かりませんが,自分たちの住宅の近くをうろつく不審な男がいて,せっかく一度逮捕されたのに住居に侵入したとは認め難いという理由で釈放されてしまい,男性に「今度こそは」という考えが浮かぶ可能性を完全に否定することはできないと思われます。「ガチャガチャという音がして外を見ると庭から出ていく男が見えた」という部分が付け足されるだけで住居侵入罪の成立が堅くなると知れば,そういう考えが浮かんでもふしぎではないようにも思われます。男性が被告人を路上で捕まえたのに警察に通報することなく出勤したという一見不自然な行動も,この「ガチャガチャという音がして外を見ると庭から出ていく男が見えた」という部分が実際にはなく,取調べのときに付け加えられたものだとすると,特に不自然な行動ではないように思われます。男性は門扉の近くの道路上にいた被告人を見つけて「何をしてるんだ」と声をかけたのかもしれません。
 いずれにしても,その一番大切な供述部分の裏付け捜査ができていなかったわけですから,控訴できなかったことはいうまでもありません。否認事件の場合は特に,証拠の多角的な検討が必要です。