特命班

 私は,平成9年4月,東京地検特捜部に異動になり,総会屋への利益供与事件とは全く関係のない特命班のキャップとして,政治家による証券取引を利用した不正を発見し解明するよう命じられました。具体的な証拠や情報があったわけではなく,もちろんターゲットを絞って摘発の対象とするよう命じられたということでもなく,抽象的に政界ルートの捜査を指示されたのでした。大手サラ金業者に関連する情報があったように思いますが,質のいいものではなく,一応捜査してみたものの徒労に終わりました。
 また,C証券会社の「VIP口座」の存在が国会等でも取り上げられており,VIP口座の把握とその取引内容の分析を行いました。というより,行わざるを得ない状況でした。この作業は特捜部資料課OBを応援にもらって行いましたが,すでに時効が成立しているような古い取引やバブル期の取引は別にして,バブル崩壊後の株価の低迷期に特別な利益提供を受けている口座は容易には把握できませんでした。そもそも「VIP口座」というのはどの証券会社にもある「特別管理顧客」という程度の意味合いの,顧客との対応に注意を払う必要がある口座のことで,特別に利益を与える顧客の口座といったものではないことが,その後分かりました。
 私は,執務室でC証券会社から押収してきた膨大な量の証拠物を検討する「物読み」を毎日毎日行っていました。そんなある日,ある女性のC証券会社における顧客カードが目にとまりました。捜査官としての勘のようなもので,本当にたまたまその顧客カードが目に入り,取引金額が多額であったため引っ掛かりを感じたのだと思いますが,その取引の内容等を調べてみようと思ったのです。その後間もなくこの女性はA代議士の妻であることが分かりますが,そのときはA代議士の妻と認識して捜査を開始したわけではありませんでした。

 A代議士名義,妻名義,妻が役員に就任している会社H名義,A代議士の政治団体名義等の過去から現在までの証券取引口座の有無を証券会社各社に照会し,あればその取引履歴を取り寄せて取引内容を解析し,取引資金の入出金に銀行口座が使われていれば,その預金口座の元帳を取り寄せて解析するといった基礎捜査を続けるうちに,A代議士の資金がB証券会社I支店に開設されたJ名義の口座に振り込まれていることが判明しました。
 J名義口座では,B証券会社が自己売買して利益の確定した取引をJからの委託取引であると仮装する付け替えによって利益が提供されていること等も判明しました。捜査の焦点は,J名義の証券口座がA代議士の借名口座であるか,つまり,A代議士がJという名前を使って取引をしているA代議士に帰属する取引口座であると認定できるかと,A代議士による利益提供の要求があったか否かに絞られることになりました。後者は,B証券会社の役職員の取調べやA代議士が証券口座を開設していた他の証券会社の役職員の取調べ等を行うことにより,A代議士の言動や証券取引に対する考え方,証券会社との対応振り等を解明することが可能です。借名口座の問題についてもJやB証券会社の役職員を取調べることにより証拠収集は可能ですが,供述以外の物的証拠があれば,借名口座であると認定する有力な武器になりますし,関係者の取調べもスムーズにいくと思われました。

 ところで,特命班では,A代議士に関連する証券取引を広く捜査対象とし,A代議士の妻が役員に就任しているH会社の証券取引についても捜査し,その関係でH会社の帳簿・伝票等をA代議士から数か月前に任意提出してもらっていました。A代議士の妻に帳簿等の任意提出を求めたのですが,A代議士が電話をしてきて「妻ではH会社のことは分からないので,私が対応します。」といってA代議士自ら任意提出してくれたのでした。
 J名義口座が特命班で問題になっているころ,数か月前にH会社の物読みを担当してくれていた特命班員の副検事が私の執務室に顔を出し,「これですか。」といって一枚のレシートに付箋が付いた領収書綴りを差し出しました。
 そのレシートは,衆議院第1議員会館地下で事務用品等を販売している商店が発行した300円の印鑑代のレシートで,その余白には,「J印鑑代」とメモされていました。もちろん,A代議士はH会社の帳簿・伝票等を任意提出するとき,このレシートの存在には気付いていなかったと思います。Jという印鑑自体はありませんでしたが,印鑑の購入先がA代議士の部屋がある第1議員会館地下の商店で,節税のためだと思いますが,レシートをA代議士の妻が役員に就任しているH会社の領収書綴りの中に保管していたのですから,A代議士とJ名義口座との結びつきは決定的なものになったと思い,副検事には本当に感謝しました。数か月前の物読みで見たレシートが頭のどこかに引っかかっていて,改めて確認してくれたのだと思いますが,一枚の印鑑代のレシートのことを思い出すのはなかなかできないことだと思われます。

 出発点から偶然の積み重ねのような捜査でしたが,うまくいく捜査というのはそういうものだと思っています。どんどん積極証拠が集まってくる事件というものがあるわけですし,逆に読み筋から遠ざかっていく事件もあり,その手の事件の捜査は未練を残さず,早めに見切りを付けて終結した方がいいと思います。それにこだわっていると捜査経済上の大損失を出したり,無理な捜査をして起訴しても後々無罪になったりし,関係者に多大な迷惑や実害を被らせることになるものだからです。

 H会社の証券取引の捜査は早く見切りを付けた部類に属します。H会社は,K証券会社に取引口座を設け,オプション先物取引というかなり専門的な取引をして2000万円くらいの利益を上げていました。ここでも確定した利益の付け替えがあるのではないかと推測しましたが,取引内容を解析してもその証拠を得ることはできませんでした。なぜ高度な専門的取引で利益を上げることができたのかが,当然問題になるわけですが,ある著名な代議士からA代議士の面倒をみてやってくれと依頼された,仕手戦で名を馳せた某相場師が,A代議士から一任されて取引していたことが分かったので,K証券会社による利益供与事件の芽はなくなったのでした。

 脱税事件の捜査などでも一つの取引の取引金額が大きなものになると,一つ一つの取引に物語があることを経験するものですが,B証券会社I支店のJ名義口座に入金された1億円の取引資金にも物語がありました。
 この1億円は,A代議士側のいろいろな証券取引口座や銀行口座を複雑に経由して6000万円と4000万円に分かれてB証券会社I支店のJ名義口座に入金されたものでしたが,元々はある会社のオーナーから,衛星デジタル音楽放送会社への出資金としてA代議士が預かったものでした。この会社は郵政省の肝いりで設立されたもので,A代議士は,衛星放送事業が新たな利権になると考えていたようで,会社の設立に尽力していました。しかし,A代議士は,出資金として託された1億円を会社オーナーに無断で株取引等に流用していたのです。そして,B証券会社の役員に依頼して,J名義の証券取引口座をJに無断で平成7年に開設し,証券会社の役職員に取引を全て任せてしまう一任勘定取引を始め,1年半くらいの間に,約4000万円の利益提供を受けていました。
 利益提供の手口は,自己売買により確定した利益の付け替えのほか,新株引受権付社債(ワラント)の翌日売買などもありました。証券会社が,顧客にワラントを販売し,その翌日にはそれより高く買い戻すのですから顧客側に利益が出るに決まっている取引でした。株価が低迷している中,B証券会社も利益を提供するのに苦労し,いろいろ工夫していたのでした。特命班では一つ一つの取引を分析し,関係者の取調べを行いました。

 平成9年12月下旬,A代議士にB証券会社が4000万円を利益提供していたとの新聞報道があって大騒ぎになり,A代議士が記者会見を行ったり,翌平成10年1月には国会でも取り上げられるようになりました。
 そのような状況下でA代議士は,Jにあるファックスを送りました。そこには,「増資までの間,Jの口座で1億円を使うことに合意した」との内容のJと会社オーナーとの間の念書(案)が記載され,それに会社オーナーのサインをもらってほしいという依頼文がついていました。しかし,Jはこの依頼を断りました。すると次にA代議士は,「こちらの不手際で1億円が手元に残っていたので,お返しします。」といって,1億円の入金が記帳された預金通帳を会社オーナーに渡し,返済したとの体裁を整えたのでした。これらは捜査の結果判明したことです。
 そして,A代議士は,その後,衆議院予算委員会に参考人として呼ばれ,1億円について,「会社オーナーから無担保で証券取引の資金として借りて,返済した。」との答弁をしました。

 A代議士の下には,特命班が各証券会社に照会文書を出したころから,その旨の情報が入っていたと思います。A代議士は,特捜部の捜査が自分に迫っていることを知り,B証券会社のJ名義口座のことが発覚しないかどうか相当気をもんだでしょうし,特捜部のことを不快あるいは恐怖に思ったろうと想像します。自分が検挙されないで終わるならそれに超したことはないので,関係者に口裏合わせ等を働きかけても不思議ではありません。

 口裏合わせ等の証拠隠滅工作は,それが発覚した場合には捜査側の証拠関係をより強いものにします。地方の検察庁に勤務していると,内偵捜査中に銀行捜査や重要人物の取調べをすると通謀や証拠隠滅のおそれがあるからやりたくないなどという警察官や検察官がたまにいますが,そんなことをいっていたら捜査などできません。捜査関係事項照会書を出しただけで対象者に伝わることは当然の前提にしなければなりません。心配があるなら銀行等へ直接行って自分でコンピュータを操作し履歴を取るしかありませんが,そうしたところで誰の口座を調べたのかは確認すれば分かってしまうでしょうから結局同じことです。メール等が削除されないよう取調べのタイミングや場所等を考え,創意工夫して捜査を展開すべきです。
 A代議士は,J名義口座が特捜部の捜査対象になっているとの情報を得たからでしょうが,B証券会社の役職員に電話をするなどして,A代議士のB証券会社I支店における証券取引が通常の委託注文取引であって利益提供を要求したことはないとの内容の阿吽の呼吸による会話を秘密録音するなどしていました。
 そして,A代議士は,この録音テープなどを自殺する前日に開いた記者会見の席で記者たちに紹介したり配布したりして,身の潔白を訴えていました。私は,ちょうどそのとき議員会館のA代議士の部屋を捜索しており,A代議士の秘書に頼んでテープの原本を回収してもらい,コピーを記者たちに配布する段取りを取ったりしました。それまでに経験したことのないような捜索差押えでした。
 A代議士の取引に関わったB証券会社の役員らは,平成9年10月,総会屋Fに対する利益供与事件で逮捕勾留されました。同事件に関する取調べがほぼ終了したころ,取調べ担当検事が,A代議士に対する利益供与事件について聴取したところ,B証券会社の役員らは,「A代議士の依頼でI支店にJ名義の口座を開設し,自己取引で利益の確定した取引の付け替えをするなどして利益を提供した」ことを認めました。取調べ担当検事は,その旨私に連絡してくれました。これでやっとA代議士に対する証券取引法違反の主な証拠が揃ったと思い,「ありがとう。」とお礼をいったことを覚えています。私は,検事をしているとき,仕事上であまり人を褒めたり礼をいったりしなかったのですが,このときは思わずお礼の言葉が出ていました。

 その後,本格的にB証券会社やC証券会社等他の証券会社の役職員,Jや会社オーナー等の関係者の取調べを行って証拠収集を終え,逮捕許諾請求の手続に至ったのでした。
 代議士の取調べは,恒例によれば特捜部の副部長が担当することになるため,私はその取調べの役に立つようにと思い,かなりの量になる取調事項と証拠関係をまとめた表を作成して副部長に渡しました。この表の出来が悪かったためか,A代議士逮捕後の取調べも私が担当することになりました。

 この事件は,半年間以上にわたり捜査を続け,やっと逮捕許諾請求にまでたどり着いたのですが,公判請求できたのはB証券会社の役員らだけでした。A代議士については「被疑者死亡」の不起訴裁定書が作成されました。